興味のない者たちへ

皆さんって患者に興味ありますか?

わたしはありません。ベッドサイドに行って、必要な情報を取る時以外興味が無い。

対象が人相手とはよく言いますが、「仕事」という事自体やらなければいけないことなだけで、それ以上でもそれ以下でもないじゃないですか。

プライベートと仕事中って、同じ自分であるはずなのに感情の幅や感じ方がまったく違うんですよね。白衣一つ、職場の病院にいるということ一つでこんなにも自分が変化するんだなあと不思議に思うばかり。どちらも自分であるはずなのに。

仕事をして何が嫌になったか、人間もとい高齢者が嫌いになった。

高齢者は特に入院後は「手厚く面倒みてもらえる」という偏見を持っている。

そんなの、医療者ほど「疾病」と「それに伴う弊害」以外にシビアな人間いないぞと思う。できることや不要なことをいちいちやってられない。内々にヘイトを宿しながらしょうがなくやっている。発狂し出す患者もいるし仕方ない。

というか、患者はよちよちしてもらいたいなら街中にいる「善い人」にしてもらったほうがよほど満たされると思われる。看護師はテイのいいご機嫌取りの道具ではないのだし。そこをはき違える者が多すぎるのだ。まったく困ったものである。

また、仕事を続けることは、自分の老いへの絶望感に繋がった。若いうちにさっさと死ぬことがすべてだと思う。これは揺るがない。

大体の看護師は、「割り切ってしまった看護師」か「現状に絶望している看護師」のどちらかだと思われる。まあまれにマジ物の白衣の天使がいないでもないと思うけれど、それは特殊な例としよう。

大体周りは仕事が嫌ながらもイヤイヤやっている者が大半。金に縛られている者がほとんど。現場は限界。わたしからすると、よく入院してくるな、と言った感じ。

怖くてわたしなんて入院できない。委ねることの怖さがある。内情を知っているからこそ、関わり合いになりたくないと思う。しかしまあ、入院していたら安心❤みたいな層も一定数しるのではたまた困ったものである。

後、入院はそんなに重篤なものではない。言ってしまったらゴネ入院なんてざらにあるし、入院も軽い重い大小あるので、入院=大変はわわ~☆ではないのだ。

一番腹が立つのはただ家族が連れて帰れましぇんしてゴネて入っただけの入院で、まだいさせてくださいのケース。これが一番意味不明。本当に必要な入院の人のベットを奪うという発想はないのだろうか。頭お花畑連中の相手をしすぎてなんだか疲れてしまった。ひたすら虚無感。こんなものの相手ばかりの自分たちの存在意義すらわからない。ひたすら虚無である。医療業界も日本も終わっている。終わった国に生まれてしまった。はずれくじを引いてしまった。わたしは早く死にたい。

取り残されたわたしたち

めまぐるしく日々が過ぎゆく中で、少しずつ毎日に取り残されていくように感じる。

置いて行かれてしまうものはいろいろある。自尊心、看護の気持ち、学生時代の思い、患者への感情、看護師に辿りついた理由。少しずつ少しずつ落として行ったものたち、ふと立ち止まって考え直した時に、「一体、何故、何を理由に看護師をしていたのか」わからなくなっていて、ただお金の為に働かざるを得ないという義務感のみこの身に残すのみとなっている。空っぽの、ただ看護師の仕事をしていただけの自分と、それを突き動かすはずであった要素は欠け落ちてしまっていて何も手元に残っていない。

そして、そのものたちを拾い集めていく気持ちの余裕すらなく、ただぼんやりと、苦痛と共に働くことになる。徐々に「自分」を擦り減らしながらある日限界に達した時、その職場を去るのだ。削られ切った自分を逃がすように。一体どのくらい多くのものを無くてしまったのだろうか。皆さまも多かれ少なかれ、働く前と今現在では、失ってしまった大切な物がないだろうか。わたしは唯一無二の「趣味」を失った。幼少の折からずっとずっと続けていて、身近にあって当然であったような趣味だった。一生続けると思っていたが仕事をするようになりできなくなっていた。そもそもやるという気持ちがゼロになり、やろうとしてもまったく手につかない。そんなものなので、やはりやらなくなった。気持ちも乗らないのだ。今思えばこれは心的エネルギーが著明に擦り減っていたという指標だったと思うのだ。だって、おかしいじゃないか。多少日常生活の忙しさに左右されていたであろうけれど、ずっと二十年以上続けていた趣味がぱったりできなくなる。機械で言う故障の状態。当然メンテナンスが必要だったのだ。

とある趣味に関するイベント事に友人に誘われたのがきっかけで、燃え上がるくらいまた情熱を取り戻し、また復帰できるようになったのだが、同時に「ここでいてはダメだ、どうにかしなければ」と思い、心のエネルギーも少しばかり回復した。

当時、問題対処をしようとする思考能力さえ著しく落ちてしまっていたのだった。

結果的にしばらく趣味は続けることができたけれど、またもあるきっかけで立ち止まる羽目になってしまった。改善したと感じても、この仕事を続ける限り、何かを犠牲にしなければならないことを知った気がした。少し調子が戻っても、この仕事をしている限り、仕事にとられるパワーの比重が重すぎて、結果プライベートを犠牲にする他ないのだ。そう感じた。趣味以外にも、日々がしんどくて入浴を疎かにしたこともまあまああった。食事を疎かにしたこともあった。何より、決められた出勤日に出なくてはならない強制感から、睡眠による休養を最優先にすることで何とかカバーした。お分かりいただけただろうか。あんなに現場で声高々に患者の生理的欲求を満たせと言われ続けたわたしたちの生理的欲求が、どうしようもなく、満たされないのだ。それがこの仕事に従事するわたしたちの実際だ。コールで布団を整えろと言われたらやる。しかし自宅に帰って寝る自分の布団はぐちゃぐちゃで、布団の寄りを整える余裕もなく体をねじ込んで眠っている。それが頭を過ぎり、苛立ちが募る。チャンネルを変えるためだけに呼びつけられ、変える。自宅での自分は見たくもない番組でもチャンネルを変える力もなく、ぼんやりと座っている。わたしたちの日常生活を送るための力を消費して生きている。それが、病院に入院する、患者と言う生き物だ。他を生かすため、今日もわたしは生きている。

気怠さと共に

どうしようもなく力が入らなくて、仰向けになって天井を見上げて、時々寝返りを繰り返しながら過ごすことしかままならない日が存在する。自分だってそんな無意味な時間の過ごし方、できることならしたくない。でもそれしか出来ない、せざるをえないほど、心のエネルギーがすり減っていて、エンプティ状態になってしまっている日がある。

それがいつ来るか、自分じゃあまったくわからない。起きた瞬間、察するのだ。

今日はあんまり体調がよくない、と。

体調気分ガチャ星1を引いてしまった日がこれだ。大体、月に2.3回くらいこのスカを引いてしまう。しっかり休んで寝て、ようやく少し回復して、また次の日のガチャに挑むのだ。そうしたら、前の日よりほんの少しいい体調を引けたりする。

自分の体調や気分の機嫌くらい自分で取りたい。もちろんそう思う。子供じゃないし、甘えている場合でもない。しかし、身体はそうはさせてくれないのだ。悲しいことに、こうなったきっかけは、皆様ご存知、看護師労働。元の正常を異常に見事に組み替えてくださった。憎らしくてたまらない。しかし、現実問題、看護師資格以外持ち合わせていないわたしは、これを使って日々金銭を稼ぐ他ないのだった。

今更違うことに奮起する気もないし、いいんじゃないかと、これでいいような気がしている。とりあえず働いて金が欲しい。以上。慈愛の心も奉仕の精神も、自己犠牲の理念すら持っていない。仕事とはそういうものだけど、職種により大衆からのイメージが出来上がってしまっているのだけはいただけない。

別にお前らが死のうが生きようがどうでもいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、死ぬなら医療ミスだとか騒がれかねない対応中の死じゃなく本人要因で死んで欲しい。以上である。

なぜ毎度こんなことをブログにまとめるかと言うと、世間にただ恨み辛みをぶつけたいだけである。また、少数意見かもしれないが実情をちょっと吐き出したいのだ。しかし私の意見を曲げようと奮起なさるのはいただけない。無駄な努力だ。徒労に終わる。何を言ってもわたしもあなたも何を変わらないのだし。

本当に日々無意味に感じる。1人を退院させてもまた新しい誰かがやってくる。満員御礼大繁盛だ。情報収集は怠い。個別性?どうでもいい。70-90代の患者ばかりで飽きた。見分けはつかない。似たような疾患ばかり。本当にどうでもいい。また退院してもやってくる。家族も本人もそれでいいのだろうか。

そんなことを思うけどやはりどうでもいい。

一生同じことを繰り返しながら、今日も病院は動いている。病院に休みはない。お盆も正月もクリスマスも関係ない。今この時間にだって、夜勤看護師がいる。詰め込まれた夜間患者の世話係として。正直、夜勤の時は、日勤が終わったら一斉にみんなで帰ってしまいたい気持ちに狩られる。後は自己責任で、朝に死んでたらその時ドクターを呼び死亡確認しますので。他人のために他の誰かを犠牲にする時点で、破綻している気しかしない。口に出したら咎められる。ご立派な倫理観で。

じゃあお前が全部やれといいたい。今日この頃だった。

人生の最期をみる仕事

自分や家族、身近な人の死ぬ時のことって、なかなか考える機会がなかった。

まだまだ先のことのように感じるし、現実味が湧かない。当たり前である。身近な人が死ぬことに直面しなければ、考えが追いつかない。経験していないことを、完全な意味で理解することは難しい。教科書で読んだからと言って、初めての手技が完璧にできないのと一緒なのだから。頭で覚えた、見て覚えたつもりでも、やってみなくちゃわからない。何がわからないのかわからない。それを責めることはしないけれど、いざ直面した時に、そら、それは悪手だぞ。と言った場面を目にすることがある。なぜ悪手か気付けるかというと、わたしたち看護師はまったくの赤の他人の人生の最期を何度も何度も何度も繰り返しみることで、サンプルとなるモデルケースを幾たびもみることで、学習して、人間の最期の選択肢やその後のイメージができるようになっているからだ。

なので、初めてそれに直面する患者家族の選択が、看護師から見てどうなのか、という視点からみている。

大抵、感情で延命しちゃうんだな、と思う。

その延命後、いつか自分たちでみれなくなるのは目に見えている。早かれ遅かれ、大体2.3割を除いた者が在宅介護で限界を感じて、レスパイト入院やら、療養病院への入院やら、施設への入所やら、選んでしまった選択肢のせいで狭まった選択肢の中を這いずり回って、押し付け先を探すのだ。

うちはそうじゃない、そんな家族だけじゃない、そんな言葉は不要です。

わたしたちには、そう、見えていますので。

わたしはそう見てない!はいはい、キラキラ理論お疲れ様です♡そういう稀有な意見をお持ちの方もいらっしゃいますよね。人の意見に押し入ってこないでお仕事頑張ってくださいね。

ともかく、そうなる未来が見えている。

なので、わたしは無理な延命は悪手と考えて見ている。ああ、きっと最初だけだろうな、と思う。こうやって行き場のない患者の煮凝りができるんだなぁ。と世の中のサイクルを感じるのだ。そうやって成り立っている。

高齢者医療に限界を感じている。看護師労働に限界を感じている。退院してもすぐに帰って来る患者も存在して、ああ、無意味な退院だったなとか思ったりする。回転率の異常な悪さが、病院の悪いところだ。

前に小児科病棟が1番回転率が高く、黒字だとスタッフ会議内で挙がった。うむ、そりゃあ、そうだろう。小児はこと回復力はすごい、治ったらアッサリ帰れる、なにより、家族が喜んですぐに連れて帰れるのだし。

それがない成人病棟もとい実質老人病棟に近い病棟なんて、押し付け合いに近いものすら感じる。回転率が良くなることなんて一生ないぞ。なにせ、ここに置いておいてもらった方が1番いい、とか抜かす患者家族が少なくないのだから。

虚無。まったくの虚無だ。

人生の最期をこんな形で見せつけられる日々は。医療者にいつまで生きたいか聞くと、60くらいであっさり死にたい、と言う意見が多く聞かれることの意味を、ここに見た気がする。長生きなんてしたくない。そんな看護師が大半な中、今日も今日とて絶賛延命中の患者をみていく。そんな虚無に立ち向かう。それが看護師という仕事だ。

度し難い人生

自分の思うように人生が進んだ事なんて振り返れば一度もなかったような気がする。

いつだって理不尽だったし、いつだって自分の想像とは違った結果になっていた。

ただ流されるままその時々事なかれ人生だった。自分の人生、大抵が人に選択を任せてその結果に今がある、といった感じ。他人に自分を委ねるのは楽だ。いざとなったら他人のせいにできるのだ。選択枝を間違えても、いつだって振り返って違う道を歩むことも可能であるはずなのに、羽を捥がれた鳥のように、おそらくあまり良い選択肢じゃない、他人が示唆した選択肢でジッと留まってしまうのがわたしの悪い部分である。自分で選び取ることができない人生ここに極まっている気がする。自分は自分のために生きているはずなのに、いつのまにか自分は他人の目と考えで生きていることに気付くことが多い。成人女性にもなって恥ずかしいと思うが、徹底的にわたしは自尊心が低い。自分に自信が無いのだ。自分の一時の感情や考えより、他人の言う事がより正しく感じてしまう。自分の意識がきちんとあっても時間が経つ内に、うんうん考えているうちに、本当にそれがいいものなのかあやふやになってしまう。自分は一体、どこにあるのだろうか。

看護師だって自分で選び取った選択枝ではなかった。敷かれたレールを歩んでいるだけだった。明確に、自分には向いていなさを感じる反面、資格を取ったのだから、労働をする場所やスタイルが「急性期」の「病棟勤務」の「常勤看護師」では向いていないだけなのではないだろうか、もしかしたら、通用する十分にこなせる場所があるのではないか、と看護師でいようとしてしまう自分が憎らしい。

先輩看護師に言われたことがあった。「今、ここにいるということは、貴方が自分で選んだことになるのよ」という言葉。まさにそうなのだ。過程はどうあれ、そこに存在するという事は自分の意志で決めた事に他ならないのだった。

怪しいながらに学生生活を終え、働き出して不調を起こしている、この時点で諦めるべきとも思う。もう、わたしには無理なのだと、スパッと決めてしまえるほど、気前のいい人間ではないのだから。

悩んで悩んで、立ちいかなくて、人生うまくいかない。

皆この立ちいかなさの中で毎日生きている。そう思ったら、素直に人間、すごいなあと思う。そして、看護師、すごいなあと思う。

中途半端で、自分で決められなくて、その時々で生きている自分。

皆悩みながら生きていて、なんとかそれと付き合って生きている。

わたしもうまく人生と付き合っていきたい。

なかなか実際には難しい事だけれど、そうやって生きていきたいなあと思う。

いびってくるお局看護師、なんでもありな病棟、空気の読まない新規入院、うまくいかない処置、突然の欠員、本当に全部が全部うまく進まない。

思い通りにならない日々の中、低空飛行のまま、今日もわたしはひっそり生きている。

まったく毎日毎日、悩み事だらけの人生である。

価値観の違い・文化圏の違い

比較的若い世代になるわたしたちといびってくるお局世代とは、価値観の違いが顕著に表れていると思う。もはや生きてきた文化圏すら違うのではないかという錯覚を覚えるほど、同じ日本人・同じ看護師であってもなかなか相容れない。

どんなに体調不良でも働いて、どんなに先輩に叩かれても働いて、どんなに辛くても働いて、何があっても喰らいついていく。それが美徳。それが自分が今まで培ってきた経験に基づいたプライド。そして決まって「自分の時はもっとこうだった」「今は恵まれている」とか言っちゃうのだ。決まりきったお局テンプレートである。

わたしたちはそのお局様と時代を共有していないのだし、わからないものはわからない。と、いうか、自分が厳しくされたから自分も厳しくするというのはお門違いではないのだろうか。慣習的にいじめられてきたからと言って自分もいじめていい理由には全くならないと思うのだが、その点に関しては一体どうなんだろうかと言った感じだ。

前時代的な価値観で前時代的な文化を押し付けられたら、やはりそれはしんどいのである。昔に比べると恐らくわたしたちは優しくふわっと育てられている。労働も、外へ出て正社員で絶対にしなくてはならないものというイメージとはまた変わってきているし、ゆるくバイトだけで生計を立てるフリーターみたいなものも一定数いるし、在宅で自分のペースで出来るものも増えてきている。そんな中、鬼教官みたく、怒鳴り散らしたりされても昭和の軍属ではないので…という気持ちになるし、とにかく「怒られ慣れ」していない身としてはそれだけで強いストレスを感じてしまう。それで参っていると「今の子は…」と言う根性論説教をはじめるのだ。

確かに、忍耐力もなかったり、昔の人に比べて経験値が少ないままここまできてしまって未熟な点はあるかもしれないが、頑なに自分の「経験」を押し付けてくる方も果たしてどうなのかな、と思う。そんなに気に食わないなら、一生お局だけの世界を作って看護しておいてください、と言いたくなる。お局も歳を取るし、定年を迎えるし、循環しない消えていくだけの世界になっちゃいますけど、それをお望みのようなので。でも面白い事にお局様、自分が気に入ってる者に関しては媚びっ媚びのババアボイスですり寄るのだ。主に男性看護師、自分よりも立場が上の者の場合に顕著にその姿を見られることが多い。出没率の高い場所:男性看護師または役職者、勤続年数が自分より長い者といった具合だ。その少女からかけ離れたややしゃがれた低音ボイスがワントーンもツートーンも上がったやかましい声が響き渡る様、控えめに言って地獄へようこそゴートゥーヘルって感じで耳から来るタイプの地獄でしんどい。せめてもう少し小さい声でやっていただきたい。貴方の声、聴きたくもございませんので。テロ行為は自粛してもらいたい。こんなに声がでかいってよっぽど自信があるんだろうなと思ったりする。全身で地雷オーラを纏っているのに自身でお気づきにならないのだろうか。そんな感じでたまに頭の中で哲学してしまう。恐らくこの手のお局様には謙虚さがないんだろう。ジャイアンなのだ。でもやっぱり病棟内でワンマンリサイタルするのはやめてほしい。だって終業時間までそのコンサートっぽい独壇場からは逃げられないんだし。ジャイアンのように見た目も高カロリーだし、濃い目の化粧でカロリーマシマシ。チークの濃さは性格の悪さに比例しているんですかね?

余談ですが、たまたまお局様のお化粧直しを見てしまったことがあり、(ミラーと向き合って必死にパフで顔を叩く様子、見たくもなかった)ちらっと見えた某プチプラブランドの化粧品、同じ型番のものは絶対に買わないでおこうと決意した次第です。こんな些細なことで起こる不買活動。経済効果がこんなことで起こってしまうんだから怖いですよね。嫌いな人の好きな物、嫌いになっちゃう現象。あるあるです。前にフォロワーさんとお話したこともあります。

とりあえず、新しい者が入らないことによって衰退確定、サヨナラ病院、サヨナラ入院患者、と言った感じではあるが。そんなことは知らない。だって、先輩方が、そいいった内部環境を作っているのが問題なんだから、どれだけの若手がいなくなろうが、どれだけの若手が精神疾患を発症しても仕方ないのだろう。そんな環境膿が溜まりに溜まった現場、変わるとはちっとも思ってない。期待すら欠片もしていない。ゆるやかにゆるやかに、衰退していくことだろう。高齢者の行く末も知らない。私は、知らない。

制度も厳しくなる、現場は新しい者が根付かない世界、どんどん首が締まっていっていることに、私たち以外は現実的に実感している者はいない。いつか破綻していく病院の体制を、その様を、ぼんやりと無関心に見つめている。一般人が実感できた時には、既に、遅い。手遅れになった世界で、皆、よろしくやってくださいね。

 

閉じた世界の中で

狭くて息苦しい。若手看護師には人権は無い。積極的に体を動かして、ナースコールを取ってベッドサイドへ行って、先輩から用事を分捕るようにしてまた動く。お昼の休憩は規定の時間の半分も取れないこともあるが、それが新人。悠長に休憩を取ろうものならば先輩方の無言の空気感が突き刺さる。余裕があっても居心地の悪い休憩室からさっさと出ていく。残業はして当たり前。一番遅くまで残るくらいがなんだかんだ先輩方のポイントが高い。(口では「早く帰りなね」などと言っていても)業務が終わったら、病院の付属の図書室で資料を集めたり、業務時間内で引っかかったことを調べる。帰宅時間、ご飯、風呂含めて2時間くらい。それ以外は日付が変わっても勉強する。そして次の日は1番乗りで職場へ乗り込むのだ。就業時間の1時間前の7時半頃には確実に病棟へ。急いで必要な情報シートを印刷して直近の血液データや検査データを見て、経過表を見て、バイタルを見て、看護記録をみて・・・。

そんな毎日はやがて限界が来る。メンタルに来たりフィジカルに来たり、まあ人によるのだけど、どこかしらに不調が出てくる。

わたしは看護師の仕事は救いのない仕事と捉えている。結局どこまで「自分」を殺して奉仕に近いことをできるかという点に関してだ。患者は「客」だ。

立場として面倒をみさされる相手より「下」クライアントは患者だけではなく「患者家族」も含まれる。こりゃまた厄介で仕方が無い。素直にやかましいのだ。ベッド数に決まりはあり決まった人数しか存在しないが患者家族が来訪すればその規定人数がオーバーするのだから、追加で料金をいただきたいレベルだ。ああだこうだとえらそうに指図するタイプの家族に関しては。

親身に接する「ふり」はすれど、その実、患者も患者家族もどうだっていい。結局はパフォーマンスなのだ。仕事だからやっているに過ぎない。町の外で出会おうが、勤務時間外に出会おうが、そこでは「患者」と「看護師」の関係は成立しないのだから、気にも留めずにスルーする。相手が気付いた場合は会釈くらいはするかもしれないけれど。

ただ、病院外でその患者が死のうがもはやどうだっていい。でも病院内で死ぬのに関しては関係ある。何故なら、翌日にまた入院がとらされるな、厄介な患者なら嫌だな、とか考えることがあるし、何より自分の勤務帯に当たれば最悪だ。死後処置に入らなきゃいけないし、大幅にスケジュールを狂わされてしまうし。余裕のない看護師は、一つ一つの出来事はすべて厄介ごとだと思うのだ。何事もなく、状態に変化もなく、うるさい家族もこない。ナースコールもほぼなくて、平和な勤務。そんなことは年に数度あるかないか。実際は認知症で同じことを何回も何回も聞いて同じところをぐるぐる回っているジジイやニコニコ笑顔でさっきまでメシを食っていたのにメシを食ってないと怒り出すババア、謎に意識が高い患者家族(じゃあ全部お前がやれ)等たくさん存在する。

在宅様は在宅様で家族が無駄に意識高すぎて本当に入院してきたら無理です。

本当に発狂しそうになるが、ここがそういう場所なのでしかたない。友人曰く「動物園」らしい。言い得て妙である。

後再三言っているけどお局看護師の存在。自分の思い通りにならなかったら怒り散らかすタイプの人種。あれもガリガリ精神力を削ってくる。大抵性悪が顔に滲み出ていて顔で自己紹介してくれている。後、大抵ツリ目かデブかブスか160cm以下のチビ。むしろその併合型。これは経験則です。

なんだかもうわたしは疲れてしまった。他人の世話をするにはまず自分が健康でなければならない。いつまでの自分は健康だったんだろうと思う。看護師になってから使い潰されるばかりで、もうわからない。ただ看護師をしていたら遅かれ早かれ健康ではなくなるというのははっきりわかる。とりあえず自分の「健康」のために今はゆっくり眠ることを大事にしようと思う。看護資格を取得してしばらく経つけれど、わたしは看護師と言う仕事に、希望を見出せないでいる。