人生の最期をみる仕事

自分や家族、身近な人の死ぬ時のことって、なかなか考える機会がなかった。

まだまだ先のことのように感じるし、現実味が湧かない。当たり前である。身近な人が死ぬことに直面しなければ、考えが追いつかない。経験していないことを、完全な意味で理解することは難しい。教科書で読んだからと言って、初めての手技が完璧にできないのと一緒なのだから。頭で覚えた、見て覚えたつもりでも、やってみなくちゃわからない。何がわからないのかわからない。それを責めることはしないけれど、いざ直面した時に、そら、それは悪手だぞ。と言った場面を目にすることがある。なぜ悪手か気付けるかというと、わたしたち看護師はまったくの赤の他人の人生の最期を何度も何度も何度も繰り返しみることで、サンプルとなるモデルケースを幾たびもみることで、学習して、人間の最期の選択肢やその後のイメージができるようになっているからだ。

なので、初めてそれに直面する患者家族の選択が、看護師から見てどうなのか、という視点からみている。

大抵、感情で延命しちゃうんだな、と思う。

その延命後、いつか自分たちでみれなくなるのは目に見えている。早かれ遅かれ、大体2.3割を除いた者が在宅介護で限界を感じて、レスパイト入院やら、療養病院への入院やら、施設への入所やら、選んでしまった選択肢のせいで狭まった選択肢の中を這いずり回って、押し付け先を探すのだ。

うちはそうじゃない、そんな家族だけじゃない、そんな言葉は不要です。

わたしたちには、そう、見えていますので。

わたしはそう見てない!はいはい、キラキラ理論お疲れ様です♡そういう稀有な意見をお持ちの方もいらっしゃいますよね。人の意見に押し入ってこないでお仕事頑張ってくださいね。

ともかく、そうなる未来が見えている。

なので、わたしは無理な延命は悪手と考えて見ている。ああ、きっと最初だけだろうな、と思う。こうやって行き場のない患者の煮凝りができるんだなぁ。と世の中のサイクルを感じるのだ。そうやって成り立っている。

高齢者医療に限界を感じている。看護師労働に限界を感じている。退院してもすぐに帰って来る患者も存在して、ああ、無意味な退院だったなとか思ったりする。回転率の異常な悪さが、病院の悪いところだ。

前に小児科病棟が1番回転率が高く、黒字だとスタッフ会議内で挙がった。うむ、そりゃあ、そうだろう。小児はこと回復力はすごい、治ったらアッサリ帰れる、なにより、家族が喜んですぐに連れて帰れるのだし。

それがない成人病棟もとい実質老人病棟に近い病棟なんて、押し付け合いに近いものすら感じる。回転率が良くなることなんて一生ないぞ。なにせ、ここに置いておいてもらった方が1番いい、とか抜かす患者家族が少なくないのだから。

虚無。まったくの虚無だ。

人生の最期をこんな形で見せつけられる日々は。医療者にいつまで生きたいか聞くと、60くらいであっさり死にたい、と言う意見が多く聞かれることの意味を、ここに見た気がする。長生きなんてしたくない。そんな看護師が大半な中、今日も今日とて絶賛延命中の患者をみていく。そんな虚無に立ち向かう。それが看護師という仕事だ。