取り残されたわたしたち

めまぐるしく日々が過ぎゆく中で、少しずつ毎日に取り残されていくように感じる。

置いて行かれてしまうものはいろいろある。自尊心、看護の気持ち、学生時代の思い、患者への感情、看護師に辿りついた理由。少しずつ少しずつ落として行ったものたち、ふと立ち止まって考え直した時に、「一体、何故、何を理由に看護師をしていたのか」わからなくなっていて、ただお金の為に働かざるを得ないという義務感のみこの身に残すのみとなっている。空っぽの、ただ看護師の仕事をしていただけの自分と、それを突き動かすはずであった要素は欠け落ちてしまっていて何も手元に残っていない。

そして、そのものたちを拾い集めていく気持ちの余裕すらなく、ただぼんやりと、苦痛と共に働くことになる。徐々に「自分」を擦り減らしながらある日限界に達した時、その職場を去るのだ。削られ切った自分を逃がすように。一体どのくらい多くのものを無くてしまったのだろうか。皆さまも多かれ少なかれ、働く前と今現在では、失ってしまった大切な物がないだろうか。わたしは唯一無二の「趣味」を失った。幼少の折からずっとずっと続けていて、身近にあって当然であったような趣味だった。一生続けると思っていたが仕事をするようになりできなくなっていた。そもそもやるという気持ちがゼロになり、やろうとしてもまったく手につかない。そんなものなので、やはりやらなくなった。気持ちも乗らないのだ。今思えばこれは心的エネルギーが著明に擦り減っていたという指標だったと思うのだ。だって、おかしいじゃないか。多少日常生活の忙しさに左右されていたであろうけれど、ずっと二十年以上続けていた趣味がぱったりできなくなる。機械で言う故障の状態。当然メンテナンスが必要だったのだ。

とある趣味に関するイベント事に友人に誘われたのがきっかけで、燃え上がるくらいまた情熱を取り戻し、また復帰できるようになったのだが、同時に「ここでいてはダメだ、どうにかしなければ」と思い、心のエネルギーも少しばかり回復した。

当時、問題対処をしようとする思考能力さえ著しく落ちてしまっていたのだった。

結果的にしばらく趣味は続けることができたけれど、またもあるきっかけで立ち止まる羽目になってしまった。改善したと感じても、この仕事を続ける限り、何かを犠牲にしなければならないことを知った気がした。少し調子が戻っても、この仕事をしている限り、仕事にとられるパワーの比重が重すぎて、結果プライベートを犠牲にする他ないのだ。そう感じた。趣味以外にも、日々がしんどくて入浴を疎かにしたこともまあまああった。食事を疎かにしたこともあった。何より、決められた出勤日に出なくてはならない強制感から、睡眠による休養を最優先にすることで何とかカバーした。お分かりいただけただろうか。あんなに現場で声高々に患者の生理的欲求を満たせと言われ続けたわたしたちの生理的欲求が、どうしようもなく、満たされないのだ。それがこの仕事に従事するわたしたちの実際だ。コールで布団を整えろと言われたらやる。しかし自宅に帰って寝る自分の布団はぐちゃぐちゃで、布団の寄りを整える余裕もなく体をねじ込んで眠っている。それが頭を過ぎり、苛立ちが募る。チャンネルを変えるためだけに呼びつけられ、変える。自宅での自分は見たくもない番組でもチャンネルを変える力もなく、ぼんやりと座っている。わたしたちの日常生活を送るための力を消費して生きている。それが、病院に入院する、患者と言う生き物だ。他を生かすため、今日もわたしは生きている。