社会人であるということ

親世代の労働価値観は、極めてシビアなものだ。うちの母親も、100%わたしの味方ではなかった。辛い思いを口に出しても、「社会人だから、自分で考えて答えを出さないと」と。お局のことを話しても「腹は立つけど、仕事をソツなくこなしてるなら職場は使いやすいわな。アンタは使いにくいし辞めるなら辞めてって皆思ってるよ。」とか。「しんどかろうが、アンタのことを考えながら働いてくれてる人なんて1人もいないよ」などと言われた時はポロポロ泣いてしまった。家族だからと言って情け容赦はない。いつだってど正論。いつだって厳しい。何故なら、わたしは成人した社会人になってしまっているから。大人だから、すべて自分で責任をとらなくてはならないのだ。親に縋り付くことはもうできなくなっているのだ。それが、大人か。社会人か、と思うと、随分と生きにくい。


身内すら守ってくれずに突き放してくるのだから、職場への期待なんて失せた。他人はもっと厳しい。

あくまで勤務を構成する1ピースが欠けてしまうかどうか。新しいピースを探してしまえば良いだけなのだ。いくら口上で大切と言われようが、その大切なものはわたし自身ではなく、看護師資格なのだ。

そういった前提条件の中で、いくら消耗しようが疲弊しようが、看護師の理想像を求められてしまう。看護師として消費されてゆく日々。笑顔を絶やすな。早く対応をしろ。詰室に患者家族が来た早くいけ。医療処置につけ。緊急入院が来た。残業になろうがいけ。ステルベンだ。ケアに入れ。患者さんのために患者さんにもっとこうしろ、ああしろ、もはや疲れ切ってしまった。善性は擦り切れた。善性はお前たちが使い尽くした。患者が、病院が、スタッフが。一種のバーンアウトかもしれないし、ただ単に抑うつ気分なだけなのかもしれない。

ただ、誰も大事にしてくれない自分を、誰が大事にしてくれるんだろう、と思うと、やはり自分でしか守ってあげられないんだなぁ、と思った。なので、わたしだけは、わたしに優しくしてあげたいな、と思う。

自分自身に向き合って、患者でも病院でも師長でもない、ただ看護師の肩書きをもつだけの自分のために。

看護師は仕事柄、他人のために在ることを求められてしまうから、皆自分自身の悲鳴を押し殺してしまう傾向がある。わたしが幾度となく感じたことだ。皆大変だから、そういう仕事だから、だから自分だけが立ち止まるわけにはいかないと、限界いっぱいまできてようやく自分がどれだけズタボロでやってきたか理解する。その状態がいわゆる適応障害なり、鬱病であったり病気にまで至ってしまった状態。ここまでになるまでに、気付けたらいいのだろうけど、どうしても自分は医療職だからと見て見ないふりをしてしまう。

世間で医療職が足りない病院が足りないと嘆くのであれば、その仕事に就く人を、もっと大事にしてあげてほしい。

人の痛みを、嘆きを、日々専門職だからと全力でぶつけられてるわたしたち。

わたしたちの痛みと嘆きは、どこにもぶつけられずに、暗闇に消えてゆく。

どうか皆様、自分のことをまず大事にしてあげてください。わたしは、限界を一度身体が知らしているのに無理して働いてしまった。そのせいでますますしんどくなってしまっている。身体の最初の助けての声をスルーせずに、どうか聞いてあげてください。 

どうか余裕があるうちに、休んでくださいね。